渋沢栄一
近代日本経済の立て役者として、今なお多くの人々の尊敬を集める渋沢栄一は、天保11年(1840)、深谷市血洗島の農家に生まれました。
持ち前の正義感から若いころは尊王攘夷運動に加わったものの、その後は一橋家と幕府に仕えます。
慶応3年(1867)には第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡仏し、ヨーロッパの進んだ思想・文化・社会などに大きな影響を受けました。帰国後は明治新政府の大蔵省に仕えますが、大久保利通らと意見が合わずに辞職。以後は、実業界の最高指導者として大きな足跡を残しました。
論語の精神を重んじた渋沢栄一は、各種産業の育成と500もの近代企業の確立に努めたほか、養育院や孤児院など600以上の社会公共事業に携わり、救護法の制定にも尽力しました。
市内で見られる渋沢栄一ゆかりの地
- 渋沢栄一生地(中の家)
- この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれています。昭和58年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学びました。平成12年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属し、現在に至っています。
- 渋沢栄一記念館
- 平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館しました。館内の渋沢栄一資料室には、栄一翁の遺墨や写真などたくさんの資料が展示されています。
- 誠之堂
- 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して建設されました。その後、取り壊しの危機に瀕しましたが、平成11年に東京都世田谷区から移築されました。
渋沢栄一については、下記のホームページでも詳しく紹介されています。